『
ロード・マンスフィールド幼伝(法律家)
その生ま
るるや、赤貧の海
に沈淪し
て世上の恩波に糊口
す
ると云
ふ程
に
はあら
ね
ど、ずいぶん窮困の家
に生
れ、智力
を研鑽して英名
を博
すべ
き光景
な
か
り
し
が、つい
に青雲
に叱咤し、イギリスの法律家前後その人多し
と云えど
も、共
に比肩
すべ
き者
な
き程の人望
と栄耀
を得
た
る
は、すなわ
ち、こ
れロード・マンスフィールド
にし
て、ここ
に其の由来
を探
ぬ
れ
ば、スコットランドの貴族5代のヴィスカウント・ストルモント
な
る者、同じ貴族のスコット
と云
ふ人の女
を娶
り、夫婦の間
に14人の子
を儲
け、その第4子
は、すなわ
ち他日イギリス裁判所長
と
な
り、その弁舌の爽快
な
る
によっ
て名
を挙
げ、また、貿易法
を制定し
て広
く天下
に大功
を遺し
た
る人
な
り
き。
ウィリアム・マレー
は1705年3月2日
に於い
てスコーン城中
に誕生し、その容貌の美艶
な
る恰
も珠玉の如
く、すこぶ
る父母の鍾愛
を得。
な
ほ極
め
て幼
き時、父母の家
を去
ること凡
そ1里半ばか
り、ペルス
と云
ふ所の学校
に入門
し、或
る時
は馬
に乗
り、或
る時
は徒歩
に
て日
に通
ひ、他童
に勝
れ
て出精
し、たちま
ち己
れ(おのれ)
よ
り先
き
に入門し
た
る者
を追い
ぬ
き、未だ年月
も経ぬ
にラテン語
に
さ
へ粗々(あらあら・一通り)通じ、教師・朋友の胆を破り
た
り。
1713年
にストルモント夫婦(すなわち父母
なり)
は活計の為
め
と
てダンフライ州
に転居し、ウィリアムと1人の弟を
ば教師の下
に残
し、年々、幾ばくのカネ
と燕麦粉
とを送っ
て其の費用を給賜せ
り。
当時、イギリス
に
て
は燕麦粉
な
ど
は馬の食い物
な
り
と
て、誰
ありて食う者無かりしが、ウィリアム並びに其の13人の兄弟等は之を常食としたりと見ゆ。
さればこそ、後、氏が貴顕の地を踏みし時、敵党の人々は常に之をもって氏を嘲訾するの良種子とはなせり。
然れども、氏は嘗て斯かる卑劣の嘲訾に懸念せず、最も気高く身を行いけるゆえ、さしも卑劣なる奴ばらも、ついに口をつぐみしとぞ。
ウィリアム、ついに14歳に近づかんとする時、父母、これをセント・アンドリュー大学校に入れんとせしが、舎兄・ジェームス、これを妨げ、ウエストミンスター
に送
り
て教育せしむべ
し
と説
き
け
るゆえ、父母、其の言
に従い種々ウィリアムを勧
め
てココ
に行
か
し
め
た
り。
そもそ
も、このジェームス
と云
へ
る
は智力たく
まし
き壮者
に
て、スチュワート朝廷
に党し(とうする・仲間になる)、心を砕い
て働
き
け
れ
ど
も、天命の帰
す
るところか、事成
ら
ずして放逐せられ、ダンバー侯と呼ばれたる人なり。
ジェームス、もとより舎弟・ウィリアムの人才なるを知りければ、もし之をして王家に党せしめば事を遂ぐるの手立てともなりなんと、配所より書を父に送りて、ウエストミンスターの学校に送り王党の薫陶を受けしむべしと慫慂(しょうよう・勧める)せしなり。
斯くて、ウィリアムは1718年3月15日をもってペルスを出立し、日の暮れぬ中、首都・エディンバラに着せんと駒急がして行けるに、早や都近きところに至りて其の駒足を患え、進むべくも見えざりければ、やむを得ず徒歩にてエディンバラまで行き、ここに駒の療治をなし、充分支度を整え、父母に離別を取らん為めダムフライスに行き、久しぶりに体面を歓ぶの閑暇もなく、たちまち又別を告ぐるに、双方とも何か残り惜しく、涙に袖をしぼりつつ南と北に別れしが、これぞ此の世の生離別と、後にぞ思い合わされける。
さてもウィリアムは郷里を出発してより種々なる旅中の難儀を経、ついに5月8日、目指す場所に到着し、かつて己が家の領地に住みつる縁ゆえをもって、或る薬商を訪い(おとない)たるに、主人、はなはだ喜び、或いは衣服の都風なるを進め、或いはウエストミンスター校の主管に近づかせ、或いは其の近傍に良き宿所を世話して下宿せしむる等、何くれとなく親切に世話しければ、たちまち諸道具も整い、ウィリアムは直ちに読書に従事し、勉強怠ることなかりけり。
始めのほどは何処も同じ書生のヒガミとて、彼が風俗語気を笑い、その本国の貧困を嘲りしかど、ウィリアム、一向取り合わず、天の縦せる(しょうせる・許す)才能と己が勉める学業とによって他の嘲弄を追い退けたり。
この頃は、あたかも此の校の盛大を極めたる時にて、書生の現員500余名、これが教授人は皆学識ある人々にて、ウィリアム、この中に研鑽しければ、智識の進歩ひときわ速く、種々雑多なる課業の中にも、殊に演述に心を潜め、後来、議院に偉名を轟かす基礎を据え、斯くて1年経るほどに進歩の徴、著しく、キングス・スカラー(王家の書生と云う義なり)に選まれ、1723年5月の選挙には、この仲間中、1等の地位を得たり。
ウィリアム・マレーは法律講習を望み、父もまた法律士と為さんと欲せしかど、如何にせん、学資に乏しく、やむを得ず教門(キリスト教)の人と為さんと決意し、マレーも是非なく之に従いたれど、なんとも不本意なるゆえ、折々その朋友なる第1代ロード・フォレーの子に失望の次第を告げけるに、この人能くマレーの奇才あるを知り、資金を投じて之を助けしかば、マレー、大いに欣び、すなわち親族にも相談を遂げ、なおオックスフォード校を卒業せざれども、リンカーンズ・インと云う法学舎に入り、1724年にバチェラーの級位を得たり。
マレー、オックスフォード校に在ること4年間、法律家となる目的にて勉強し、暫時も懶らず(おこたる・怠ける)、能く諸課に出席し、なかんずく弁舌を磨くには非常の勉強をなしたりとぞ。
1727年には「ジェームス1世斃ず」と云う題にてラテン語の試詩ありしに、マレー、1等賞を得、彼の後、マレーの敵手にして宰相の官に昇りたるピットも、この時、氏が為めに失敗を取れり。
マレー、リンカーンズ・イン(見上)に習学中、或いは法律討論会に出席し、或いはウエストミンスター審判庁に行きて席判の景況を観察し、1730年に至って裁判所の出頭の許可を得、12年を経てソリシタ・ジェネラルの位に進み、下院中第1等達弁者の名を得、人皆、第1代ピット(イギリスの宰相にて、すこぶる達弁者の名あり)に比肩すと評せり。
ロード・チェスターフィールド曰く、2人の者(ピットとマレーなり)よりほかに此の議員に感覚を与え得る者なし、斯くまで大数の人員が集会し、斯くまで騒喧なる集会も、この両人の演説する時のみは針の転ずる音をも聞くを得べしと。
1754年にアトーニー・ジェネラルとなり、2年を経て、キングス・ベンチ審判庁の長となり、1788年に至るまで此の官に在りて老退し、1793年3月20日、ついに富貴栄耀の生を終わり、遺骨をウエストミンスター寺院に葬る。
公の裁判所に出入りする頃、その力をよって莫大の地所を回復したる一官吏、公の徳を忘れず、為めに記念碑を建設せり。』 pp 769 - 772